2006年09月06日
鳥居耀蔵
あまりメジャーな名前ではないかもしれないが、最近日経新聞でこの人の名前を見たのでブログに書くことにした。
天保の改革の際の彼のエピソードは陰険なものが多い。おとり捜査を常套手段とし、主人といってもよい水野忠邦ですら裏切ってしまうような陰険な人物で、当時の人々からはその名をもじって『妖怪(耀-甲斐)』の渾名を贈呈されるほど忌み嫌われた。ただ、水野忠邦が老中に復活すると、職務怠慢・不正を理由に解任され、身柄を讃岐国丸亀藩に預けられ、一生軟禁生活を強いられることとなる。
まあ、秘密警察の長官のような人物とでも言ったら分かり易いかもしれない。
ちなみに下記の画像は、鳥居が幽閉中に書いた書簡である。
天保の改革の際の彼のエピソードは陰険なものが多い。おとり捜査を常套手段とし、主人といってもよい水野忠邦ですら裏切ってしまうような陰険な人物で、当時の人々からはその名をもじって『妖怪(耀-甲斐)』の渾名を贈呈されるほど忌み嫌われた。ただ、水野忠邦が老中に復活すると、職務怠慢・不正を理由に解任され、身柄を讃岐国丸亀藩に預けられ、一生軟禁生活を強いられることとなる。
まあ、秘密警察の長官のような人物とでも言ったら分かり易いかもしれない。
ちなみに下記の画像は、鳥居が幽閉中に書いた書簡である。
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20:10
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2006年09月03日
板垣退助
久しぶりの更新であるが、お許し頂きたい。
岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した際に「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという逸話で有名な板垣退助。100円札の肖像画にもなっている。
ところが、実際は暴漢に襲われて血まみれになり、「痛い、痛い。」と叫んでいたという話である。腹部を刺されたのだから当然といえば当然の話である。このように逸話として伝わっている話の中には、事実と違うものもあるので、色々と文献をあたってみるのもおもしろいかもしれない。
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21:47
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2006年08月03日
山内一豊
現在放映中の大河ドラマ「功名が辻」の主人公だが、正直この人の功績はよくわからない。(というよりないと言った方が適切だろう。)
ただ、関ケ原の折に家康に賭け、東海地方の豊臣恩顧の大名連中の懐柔に何らかの功績があり、土佐一国の大名となったことだけは確かである。小大名なりの生きる知恵を持っていたということだろう。
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18:38
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2006年07月10日
細川幽斎
足利義昭→織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と激動の歴史の中を生き抜いた人物。
その卓越した時代を見る目はすばらしいものがある。
本能寺の変の時の対応、関ケ原の際に田辺城に篭り、西軍1万5千人をひきつけた功績(結局この1万5千人は関ケ原には間に合っていない)は、この人の人物眼、時代を見る目の確かさを立証するものだろう。
また、この人は風流人で古今伝授の伝承者でもあった。関ケ原の際には、後陽成天皇が「もし幽斎が田辺城で落命するようなことがあれば、古今集の秘伝は永久に絶えるであろう。すみやかに城の囲みを解くように」との勅命を出したという。
下記画像は田辺城跡。
まさに芸は身を助くである。人間引き出しの数が多いに越したことはない。
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09:12
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2006年07月09日
黒田長政
以前ブログに書いた如水(官兵衛)の長男で、福岡藩の藩祖である。加藤清正、福島正則らとともにどちらかというと武断派の印象が強いが、関ケ原の戦いでは父親ゆずりの策士ぶりをみせ、関ケ原後の論功行賞で筑前52万石を勝ち取った。
如水と比べて批評されることも多いが、52万石を勝ち取ったのは紛れもなく長政の功績であり、素直に器量の良い2代目と評価したい。
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09:05
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2006年07月08日
乃木希典
日露戦争の203高地における戦闘で有名な乃木将軍。西南戦争でも軍旗を奪われるという失態を犯しているが、幸か不幸か長州閥であったため、大将の位にまで昇りつめてしまった。
乃木はキャラかテクかでいえば、キャラ派に属する人物である。
正直203高地は、以前このブログに書いた児玉源太郎がいなければ攻略できていたかどうか怪しい。
つまりテク派でないのにまわりに彼を補佐するテク派がいなかったために、あのような犠牲を強いられたのである。
乃木自身も2人の息子を日露戦争で亡くしている。
ただ、キャラ派らしく明治天皇にはかわいがられたようである。そんな乃木は、1912年、明治天皇崩御の後、夫人とともに殉死している。
生まれてくる時代を間違えた人物なのだろう。
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09:25
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2006年07月07日
毛利元就
権謀術数に長けた策士で、暗いイメージがつきまとう人物である。ただ、この人の見た目、会ったときの印象は、こういったイメージとは全然違うものであったのではないか。
つまり見た目の印象と裏で仕掛けていることのギャップの大きさにみなだまされてしまったのではないかと思う。(これはある種のイメージ戦略である。)
逆にいうと彼は人間というものを非常によく知っていた人物なのである。
人間観察という意味では、毛利元就と徳川家康が戦国時代の双璧かもしれない。
ちなみに、ご存知の方も多いと思うが、三本の矢の逸話は史実ではない。
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09:13
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2006年07月05日
伊達政宗
伊達政宗といえば、あなたは何を思い浮かべるだろうか?
私は政宗の読んだ下記の詩を思い浮かべる。
馬上少年過 馬上に少年過ぎ
世平白髪多 世 平らかにして白髪多し
残軀天所赦 残軀 天の赦すところなれば
不楽是如何 楽しまずんばこれいかに
政宗は遅く生まれたため天下をとれなかったという説があるが、私はそうは思わない。恐らく秀吉の小田原征伐の頃は、東北一円+関東の一部ぐらいを制覇できればよしと考えていたのではないか。当代一流の人物であったとは思うが、天下を取るような器ではなかったように思う。要はややセコイ面(小利口ものといった方があてはまるかもしない。)が強い人物なのである。
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08:58
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2006年07月04日
源義経
昨年大河ドラマでタッキーが演じた義経。日本人の判官びいきもあり、著名な人物であるが、彼を組織人として見た場合、2流以下の人物になる。
なぜか、彼は越権行為を行ったからである。確かに戦ぶりは天才的である。しかしながら彼は、上司たる頼朝の許可なく熊野の別当湛増に援軍の依頼を行ったり、後白河法皇から官位をもらったりしている。後白河法皇はあの頼朝が大天狗と言った老獪な政治家である。
若い義経はある意味後白河法皇の手のうえで踊らされたわけである。
まあ、平家を滅ぼせばいずれは殺される運命にあったとは思うが、うまく立ち回りさせすれば、少なくとも頼朝が生きている間ぐらいは生き延びることができただろう。というわけで、私は軍事的な役回り以外では彼を評価していないのである。
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08:55
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2006年07月02日
母里太兵衛
たまにはご当地の人のことも書かないとと思い、博多駅の駅前にも銅像のあるこの人
「母里太兵衛」のことを書きます。「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑みとった逸話で有名な人物であるが、栗山善助を兄と慕い、小さい頃から如水(官兵衛のこと)に仕えた。また、関ケ原の際に、石田三成の人質となっていた如水夫人を中津城へ奪回したという功績もある。
下記の写真は、母里太兵衛の屋敷にあった長屋門で、「日本号」という名のその槍は福岡市早良区の福岡市博物館で見ることができる。福岡城跡は石垣や櫓などの遺構が適度に残っているので、歴史が好きな人は一度訪問してみるとよい。
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09:32
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2006年07月01日
東条英機
父は陸軍中将で東北南部藩の出身。カミソリ東条と呼ばれた人物。私には戦前の日本の陸軍における教育が生み出した集大成という印象が強い。石原莞爾は天才肌だが、こちらは秀才肌で、石原莞爾からはばかにされていたようである。とはいえ、その姿勢は立派であり、暮らしは質素であった。その証拠に、アメリカ軍が東条の自宅を狙って爆弾を投下しようとしたが、その隣に住んでいた鍋島侯爵(あの肥前の鍋島氏)の屋敷が立派だったため、誤って鍋島侯爵の屋敷に爆弾が投下され、鍋島夫妻が死亡したという話がある。思想は違えど国を思っての行動振りは、日本中にいる今の政治家連中に見習って欲しいものである。
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07:18
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2006年06月30日
岩倉具視
なつかしい500円札の肖像画で有名な人物であるが、実は妖怪といわれていた岩倉。1871年には特命全権大使として岩倉使節団を組織し、欧米の文化・制度を視察、その後大日本帝国憲法の制定にも尽力した人物なのであるが、宮廷政治家としての暗い印象を拭い去ることができない。何しろ孝明天皇を暗殺した人物といわれており、明治天皇が病床の岩倉を見舞いにいって、そのことを話し、岩倉がどきっとしたという話が残されているぐらいだから。つまり目的のためには手段を選ばないタイプの人物なのである。
下の写真を見ると、何となく妖怪といわれたのもわかる気がする。
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08:55
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2006年06月28日
高師直
その昔、日本史で足利尊氏と習ったこの肖像画、最近では尊氏の執事、高師直であると言われている。私が高師直という人物から思い浮かべる言葉は、「奢れる平家は久しからず。」である。人間、調子に乗りすぎてはいけないという先人のありがたい教えである。そういや、よく死んだ親父から「のぼせあがるな!」って言われたな。
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08:57
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2006年06月27日
石田三成
歴史は勝者によって作られるため、勝者にとって都合の悪いものは改ざんされるのが世の常である。この人に対する評価も何人かの賢明なる学者、作家によってかなり公平なものになってきている気がする。
先にブログに書いたキャラかテクかということでいえば、彼はテク派だと思う。それゆえにその両方を三成よりうまく使いこなす家康の前に敗れた(もちろんそれ以外の要素もあるが)のだと私は分析している。あなたのご意見は?
ちなみに、三成がいなくなってから大阪城の風紀が乱れたという話がある。逆にいうと、ある程度大きな組織になると、こういうタイプの人間が必要なのである。
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08:55
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2006年06月24日
児玉源太郎
日露戦争で日本に勝利をもたらした立役者である。この方は、いわゆる薩長閥出身ではなく、徳山藩(徳山は毛利の支藩であるがその出身者は厚遇されていない)出身である。日露戦争のために全身全霊を傾け、旅順攻略、奉天会戦でロシアのクロパトキンを退けた名将である。上官が大山巌元帥だったことも幸いしたのかもしれない。当時の日本の国力の限界まで知っていて、アホなことを言う人間を抑え、戦争を終結へと導いた(そのために様々な画策をした)その手腕は素晴らしいとしかいいようのないものである。手を上げた拳をきちんとおろさせたのである。(手を上げることはある意味誰でもできるが、それをきちんとおろさせることは中々できることではない。)日露戦争に全身全霊を傾けた名将は、日露戦争終結の翌年の1906年、息をひきとった。
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11:29
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2006年06月22日
徳川家康
誰もが知っている人物。ありきたりのことを書いても仕方ないので、この人のすごい点をひとつだけ紹介します。それは、生涯で同じ性質のミスを2度していないことです。こんな人はまずいません。少なくとも私は今までにお会いしたことがありません。
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20:55
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2006年06月19日
聖徳太子
聖徳太子といえば、あなたは何を思い浮かべますか?1万円札ですか。法隆寺ですか。それとも冠位十二階だの十七条憲法だの日本史で勉強したことですか。ここからは堺屋太一氏の受け売りですが、聖徳太子という政治家は仏教、儒教、神道の存在をすべて認めるという画期的なことを考えた人なのです。日本人は正月に初詣のため神社に行き、人が亡くなるとお寺にあるお墓に埋葬します。儒教は今はその影が薄くなっていますが、日本人はクリスマスもそれなりに楽しんでいて、自らの文化のひとつとして上手に取り込んでいます。このようなある意味無節操な日本人の宗教観では、海外で起こっている数々の紛争の原因を理解できないでしょうね。かくいう私もその本当の意味を理解できない(というよりも感覚的にわからない)人間の一人です。
Posted by まくり屋せいちゃん2 at
00:52
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2006年06月18日
源頼朝
写真は源頼朝と伝えられている肖像画であるが、最近ではこれは足利尊氏の弟の足利直義であるとの説が出されている。それはともかくとして、1192 いいくにつくろう鎌倉幕府で有名な頼朝であるが、彼のすごいところは政治家としての能力である。すなわち幕府という令外の官により、朝廷と幕府という権力の2重構造を作り上げた点にある。その意味では令外の官でありさえすれば別に征夷大将軍でなくてもよかったはずである。頼朝自身が考えたのかはたまた大江広元あたりが考えたのか知る由もないが、とにかくすごい論理構成能力である。
Posted by まくり屋せいちゃん2 at
18:56
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2006年06月15日
大久保利通
維新三傑の一人で、日本の官僚制度を作った人物です。西郷隆盛と比べると評価があまりにも低いのですが、その後の日本社会に対する影響度を考えると、維新三傑の中で最も評価されて良い人物だと思います
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12:08
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2006年06月13日
黒田官兵衛
この方、秀吉の軍師で福岡藩の初代藩主黒田長政の父、黒田官兵衛です。福岡という地名は、この黒田一族が備前国黒田荘の出身だったことに由来しているとどこかで聞いたような記憶があります。(間違っていたらごめんなさい。)この方自身は日本の軍師とよばれる人の中でも結構人間臭いほうだと思います。晩年(関ケ原以後)は福岡城三の丸に築いた屋敷でのどかに過ごしたそうです。信長の野望等のゲームやる人の中には官兵衛をご存知の方もいるのでは?
Posted by まくり屋せいちゃん2 at
13:04
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